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タケとあられのブログ

リタイアした夫婦が、郷里の片田舎で両親の世話をしながら、農業や自治会の仕事に追われ、ゆとりがあるはずだった生活に揉まれながら諦めずに趣味に拘り、二人三脚で生き方を模索する、、、そういう記録を発信します。
「美術館建設の条件に違和感」
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     久々に投稿した。4月1日のことだが、土曜日だから月曜日(3日)から10日目の掲載だった。

     何故投稿したかといえば、投稿を目的にして原稿を作成したのではなく、1日のニュース報道で触発されてその日の夜ネットで投稿した。

     県立美術館建設については様々な判断があり紆余曲折を経て中部倉吉市に建設と決まった。ところが、県議会で出された条件には驚いた。議会は誰のために何を考えているのか問いたくなった。多数派の現政権与党議員や県庁所在地選出議員などの賛成多数で条件付き承認とされたのだった。

     

     以下、掲載原稿。

     

     ようやく、鳥取県立武術間の建設場所が決まった。まずは関係諸氏に敬意を表したい。だが、県議会において条件付き承認だったことに、特に「東部への配慮うんぬん」には違和感を禁じ得ない。

     県内で総合的な美術館の役割を果たしていたのは、鳥取県立博物館の他に米子市美術館と倉吉博物館がある。東部の方々にとっては、県立博物館が市立美術館のような位置づけだったのだろう。

     理解に苦しむのは、鳥取市にゆかりの作品などを以後も県立博物館に残す案が付記されたことだ。まるで、鳥取市民の財産として少しは残せというふうに聞こえる。新しい県立美術館でそれらを見られないのもまた困った話。中部までお出かけいただくわけにはいかないだろうか。

     鳥取市桂見に建設する案が検討されなかったという指摘も噴出した。当時は、「建設=箱もの」と見なされ、建設する意味と費用が見合わなかったからだ。

     県庁所在地ゆえに、そこに集約する諸施設利用の優位性はやむを得ないとして、一方で県民の施設でもある。

     美術館建設の議論の中では「県民のための」、そして「箱ものにならない」が有力な判断基準だろう。広く県民がこぞって新美術館を利用して、県民文化の一層の醸成を目指すのがスジというものだろう。

     

     以上。タケ

    | 日本海新聞「やまびこ」投稿 | 19:19 | comments(0) | - | - |
    日本海新聞「読者のひろば」
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       2016.4.4(月)の朝刊に掲載された私の投稿。投稿から1週間はかからなかった。全く初めての経験で、一人で眺めても気恥ずかしさを感じた。私が投稿したのが「私の視点」という分類になる。
       同じ日、県立美術館の関連で他にも投稿があった。鳥取市の方だが、この方は当然の如く鳥取市に建設を前提とした論調だ。米子市や倉吉市には市立美術館が存在感を示すと述べて、それらしいものがない鳥取市に県立美術館をという展開には、流石に、鳥取市が鳥取県民のものを私物化していると思わざるを得ない。

       この投稿と並べて、「県立美術館を考える」というテーマで括られた。では、私の投稿を紹介する。

      「身近で役立つものに」

       先日の本欄に掲載された「”箱もの”美術館に疑問」という米子市の赤路さんのご指摘に賛同します。中部にとのご意見にも心強いものを感じます。箱物=お飾りは、わが鳥取県には無用と考えます。そもそも、収容物の問題、耐震問題があったと聞きますが、わざわざ美術館として建設する意味は、広く県民が利用できるもの、合わせて地域創生につながるもの、この2点が視野にない建設はまさに無駄遣いでしょう。ただ、何れか地に建てれば良いというものではないはずです。

       中有に誘致する集会が先ごろ、開催されました。そこで彫刻家の澄川喜一氏が公演で紹介された芸術文化センター「グラントワ」のコンセプトが大いに参考になると感じました。

       県立美術館の建設の是非が決着したのなら、どのような美術館にするか、芸術作品の公開展示にとどまらず、青少年教育や生涯学習とのリンク、既存の観光資源とのコラボ、広く県民の余暇や余生の充実など、身近で役立つものにすべきでしょう。美術館を生かすのも支えるのも県民が担うという視点では、話し合いがまだ不十分だと感じます。

       しかしながら、「どういう美術館にするかは美術館を運営される方々の問題」として誘致先の議論が高まっています。誘致先の人々をはじめとして県民が、美術館を軸にする新しい文化・生活スタイルを追求する永続的な取り組みに地方創生が重なります。

       国の機関を地方に分散させる試みが始まったところです。東西100キロのわが県が、例えば東部が行政、中部が芸術文化、そして西部が商業というように調和の取れた発展を果たすのが最善だと思います。

       江戸時代に、鳥取藩が因伯を治める理想の地として、北栄町の茶臼山に城郭建築の縄張りをしたという事跡を参考にしてはいかがでしょうか。

       こういうことだった。タケ
      | 日本海新聞「やまびこ」投稿 | 07:48 | comments(0) | - | - |
      「戦中戦後の難、今は懐かしい」
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         とうとう8月19日のやまびこ欄に掲載された。
         入院中の母が、ベッドの上だけの生活が退屈だとこぼすのを、元気になるまでの治療だからと励まして、投稿原稿を促していた。

         ある日病院に見舞った時、原稿を差し出して、不味いところを直して出してくれと頼まれた。これまでは、全て我々に見せること無く送っていた。初めてのことだが、どうも集中力が続かなくなったらしい。
         募集されたテーマを意識して認めており、是が非でも出してやりたかった。

         帰宅して原稿を読んでみた。字が読みにくい。筆圧の関係と旧字体のためだが、文脈も部分的におかしい。どう処理するかで大いに迷う。
         翌日、母に、訴えたかった内容をを確認して修正を極力避けながら原稿をまとめた。次の日、母にそれを見せると母は何も言わず、ウン、と頷いた。

         投稿後、そのことを母に告げると、大体10日から12日位は先のことになる、と言った。8月8日、ポストに投函。11日目の掲載だった。

        「戦中戦後の難、今は懐かしい」
         

          戦後70年が過ぎたと叫ばれていますが、私が94歳、成る程と思うこの頃だ。

         戦時中、家に残るのは老人と女と子供。小学生でも出来る生徒は、畑を借りてさつまいもや馬鈴薯を栽培、出征兵士宅の手伝いなどそれはそれは様々な経験をした。

         食べ物は大切で、量を増やすために麦やくず米を混ぜて食べる。春になるとセリ、ヨモギ、なずな、大ばこ、どくだみなどを食べた。畑を持たない人が道端にこれらを採取する姿をよく見かけた。

         適齢期の若者が減り、生まれる子供も減った。それが、終戦とともにベビーブームを迎える。とにかく国を上げての難儀だった。

         70年経っても思い出すのはその当時のこと。つらい思い出だが、今では懐かしい思い出にもなっている。それが70年という平和な歳月のお陰だろうか。

        | 日本海新聞「やまびこ」投稿 | 07:14 | comments(0) | - | - |
        「ペンすらすら暇見ては書く」
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           母の投稿が久々に掲載された。1ヶ月余前の退院後、夏の猛暑と重なって極端に生活の様相が変わった。畑仕事から投稿に絞ったらどうかと勧めながら筆が進まない姿を気にしていた。

           しばらくして、封筒と切手が要ると言い出した。ああ、投稿するのだなと思いつつも、母からは掲載されたという話を聞くことがなかった。
           母は、投稿前に家族に原稿を見せない。ただ封筒と切手のことを言い出した時がその合図になった。

           もう諦めたかと思っていた時、再び封筒と切手と言われた。諦めていないと知る一方で今度は掲載されないかと気を揉んでいた。しかし、その後もそういう兆しがないまま、今日(29日)、陶芸教室のメンバーに掲載された記事を読んだと教えられた。

           掲載日は7月27日だ。この日は母の誕生日だった。あられと話すのは、新聞社が特に気を使って誕生日に掲載してくれたのではないかということだ。
           この日は朝から母を病院に連れて行き、誕生日だからといって昼食も外で食べた。疲れて帰宅するとそのまま居眠りをした。この日の新聞を読む余裕はなかった。

           夕方帰宅してから母に掲載されたことを伝えた。以下その内容。


          「ペンすらすら暇みては書く」

           月日の流れに休みはない。いつの間にかこんな年齢になったのかなと思うくらいだ。忘れることは得意、字はもちろん、人の名も。

           私は年末に考えた。長男に、毎年書ける日記を買ってくるように頼んだ。幅広くしっかり書く場所のあるものをと。

           長男は、私の思っていた品物を整えてくれた。思うことがしっかりと書ける。おまけにページの横には有名人の話が一句ずつ記されている。

           この間、ふと見れば「呉竹の ふしおもしろき 言の葉に 鳴らす扇の 風ぞ涼しき」(明治天皇)とあった。

           子供の時分、明治天皇は神様のごとく尊敬していた方であったことを思い出す。
           また、「老僧の 骨さしに来る 藪蚊かな」(高浜虚子)。

           その後、日記帳は私用の練習帳みたいな存在になり、隙をみては書き、夜ゆっくりと思う存分に書く。
           また新聞は師である。良い文章や大切なこと、テレビのニュースなどでも必要に応じて書くこと多しだ。

           ペンから遠ざかる傾向はあったが、今では非常に近くなり、ペンの運びもすらすらと動く。


           内心は、漸く掲載されたことに安心したことだろう。畑仕事は体調が快復するまで自重だと言っている。この分だと、投稿に拍車がかかるかも。タケ
          | 日本海新聞「やまびこ」投稿 | 07:38 | comments(0) | - | - |
          「信仰心あつく穏やかな最期」
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             4月22日の朝、母が新聞を置いて、投稿が載ったと言う。そうか、何時の間にか出していた。一つ前は、内容を気にして私に相談した。その時は、無残にも即座に却下したのだった。見せればまた却下されると思ったのか、今度は黙って投稿した。

            「信仰心あつく、穏やかな最期」

             100歳に近かった主人は2月20日、穏やかに天国へ旅立った。仕事には熱心であったが、日常の生活はわがままでごう慢であった。しかし、神仏への信仰心は人一倍持っていた。毎朝時間を決めて神仏を拝み、お経を唱えて拝んでいた。

             病む期間も長くなかった。眠るだけで苦しみもなく、手間も余りかからない病人であった。嫁に洗い物の世話を忙しくしてもらっていたが、隣の私の友人いわく「ご主人は神仏のおかげと思う。いいあんばいにお天気もよし、恵まれている」と。
             考えてみれば、葬儀の日も好天気で、七日、七日も好天気。四十九日も晴れで、この日は和尚さんにお経を上げてもらい、親族一同食事場所へ移動した。

             この日野お客一同は和気あいあいと話が弾み、心地良い見送りであった。主人は今頃、極楽浄土を散歩して美しい花でも眺めていると思う。
             人の常識として神仏を礼拝することは当然である。健康で生を受けている私は、感謝の心を持って日々を送りたいと思っている。


             こういうことだが、本人談では新聞社に結構修正されているという。それは我々には分からない。本人のみぞ知る。修正されるのが嫌なら事前に私に見せることだな、と注文をつける。

             父の信仰心については、私はそのように思わない。若い頃から父は合理主義者だと思っていた。ただ、神頼みは結構あったように思う。父が毎日神仏を拝むのは、毎日の生活にけじめ(格好)をつけようということだと思う。仏の教えや神々のことはある程度理解していたとは思うが、生き方そのものはあくまで唯我独尊だった。日課に位置づけていたに過ぎない。

             投稿した母こそ信仰心が薄い。そういう母から見れば信仰心が厚いということになろう。生真面目で常に潔癖でありたいと思う母は、自己執着が強く神仏の教えに染まらない。ことわざや格言、戒めなどにも疎い。
             そういう母が、こういう内容で投稿したのが不思議だが、往々にして人は近い親族を失って信仰に目覚める。思い出に浸るだけかもしれない。そういう私は果たしてその気になるかどうか疑わしい。タケ
            | 日本海新聞「やまびこ」投稿 | 07:37 | comments(0) | - | - |